はじめに
5月上旬に9日間で南イタリアへ観光旅行へ行ってきました。この記事では旅程4日目のポンペイ遺跡観光、旅程5日目午前中のアルベロベッロ観光の様子をご紹介します。
旅程4日目
ポンペイのホテルで朝食を済ませた後ホテルのすぐ近くにある世界遺産ポンペイ遺跡の観光へ出発しました。
ポンペイ遺跡に限りませんが世界的に有名な観光スポットはテレビ、本、雑誌、口コミなどで映像や写真とともに幾度となく紹介されそれらを目にする機会も多くあります。そのために実際に初めて現場を訪れても「既知感」や「デジャブ」を感じたりして、残念なことに新鮮な驚きや感動が弱まってしまうことがよくあります。
カンボジアのアンコールワットや中国の有名な景勝地などを訪れたときなどに何度か経験しました。そのようなことを少しでも防ぐ目的で、近いうちに行く予定の観光スポットがテレビなどで詳しく紹介されるときはその番組は敢えて見ないようにしています。
ポンぺイ遺跡についてもテレビの詳しいドキュメンタリーなどで過去に何度も見てしまっていましたので、新鮮なサプライズは期待できませんでしたが、現場に実際に行くことにより初めて感じられたことを大切にしたいと思いました。
世界遺産ポンペイ遺跡
ポンペイ遺跡は、南イタリアのカンパーニャ州にある古代ローマ時代の遺跡です。ポンペイはローマ帝国の商業都市、貴族たちのリゾート地であったようで最盛期には1~2万人の人々が光輝く太陽と温暖な気候の下で豊かに暮らしていたようです。
発掘されたポンペイの街並みはローマ時代の姿をそのままとどめたもので、道路や広場、個人の住居や別荘、宿屋、お店、水道設備、浴場、市庁舎、裁判所、闘技場、体育場、劇場、娼館まで立派に整えられていました。
強大なローマ帝国には属国などから食料、お酒、香辛料、建材、道具類、装飾品、美術品などあらゆる種類の富がもたらされていて、当時ポンペイの人たちは極めて豊かな生活を楽しんでいたと考えられます。
当時の日本は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡にあるような素朴な木造建築での生活をしていた弥生時代ですのでポンペイがいかに文明的に進んでいたかが分かります。
ヴェスヴィオ山が大噴火を起こしたのは西暦79年8月24日(10月17日以降の説あり)の午後と言われています。ヴェスヴィオ山から噴き出した火山弾がポンペイに落下し、高温の有毒ガスと火砕流が襲い、最後には降り続く火山灰が街を5~6mも埋め尽くし、2,000名以上の人が犠牲になったと言われています。
半径12kmの広範囲に渡って火山灰に覆い尽くされた街はそっくりそのまま保存され、1748年に約1700年ぶりにその姿を現しました。当時その保存状態のよさに皆驚いたと言われています。
今回のポンペイ遺跡観光ではポンペイのPORTA MARINAにあるメインの入り口から入場して約2時間かけて注目すべき場所や建物などを見学しました。門の前には朝からたくさんの観光客が集まっていました(下の写真)。
街並みや上下水道
ポンペイの遺跡内を歩いているとまず目に着くのが、大変綺麗に整った街並み、道路、上下水道です。都市計画に沿ってちゃんと測量し、大小の道路、広場、建物などの区画を決めたうえで建設したものと思われます。
立派な道路は石が敷き詰められ、車道と歩道に分かれていて通行しやすくなっています。居住区より30センチほど低く作られた車道は大雨で下水があふれたときにこの車道に下水を流せるようになっていました。そのために車道にはところどころに飛び石が配置され、歩行者が水につかることなく横断できるように配慮されていました(下の写真)。もちろん車道を通る馬車はこれらの飛び石をうまく避けて通行していたようです。
また道路のところどころに白い大理石が埋め込まれている箇所もありました。これは夜になって道路を少しでも明るくするための工夫だったようです。夜には月明りや道路際に配置されたであろう松明の光を反射させていたものと思われます。
また上水道は、裕福な家庭などには直接水道が引かれていたようですが、その他の人々は道路わきに所々に設置された約30か所の水道井から水を汲んで各家庭で使っていたそうです。右下の写真のように大通りにある水道井は白い大理石の立派な造りになっていました。
蛇口は単に機能的に作るのではなく、人の顔の彫刻で飾るというセンスがとても素敵だと思いました。またこの人の顔の彫刻はポンペイの街のすべての水道井でそれぞれ異なっているそうです。
なお、街を流れる豊富な水を利用してトイレも原始的な水洗トイレになっていて、用を足した後も水で体を洗っていたようです。
ポンペイの見事な街並みや上下水道は必ずしもポンペイの街独自ではなく当時のローマ帝国の大都市に共通する特徴だと考えられます。
ローマ帝国があれほど繁栄したのは、その一つの理由としてローマ帝国の土木・建築や上下水道の高度な技術が大いに貢献したからだと考えられます。
特に水は生きる上で最も重要なもので、ローマの軍隊が次々と周辺国を侵略し併合していく際にまず上下水道を完備し、同時に通行しやすい石畳の道路などのインフラを整備してそれらの地域をうまく収めていたのだと思われます。特にローマ帝国が各地に建設した長距離水道橋は技術力の高さが際立っていました。
当時建築にも高度な技術を使って大理石などの石材、レンガやセメントなどで壁を作っていたようです(下の写真)。すでに現在のイタリアの建物と同じような造りだったそうです。
闘技場と劇場
ローマ帝国では市民の娯楽をとても大切にしていたようです。政治や行政への日ごろの不満に対するいわゆる「ガス抜き」のために闘技場などをたくさん建設し、剣闘士の戦いを見せていたとも言われています。
ポンペイにも1つの闘技場と2つの劇場がありました。下の写真は大劇場です。最大5,000人を収容できたこの劇場は、音響効果にも配慮され、ギリシャ風の悲劇や神話劇などが催されていたそうです。
テレビ、ラジオ、映画などがなかったこの時代には闘技場や劇場でのイベントは市民にとって最上の娯楽だったに違いありません。例えば、貴族の女性が「推し」の剣闘士を応援していたようなこともあったようです。
ローマ帝国の闘技場と剣闘士についてはラッセル・クロウ主演の2000年制作アメリカ映画「グラディエーター」の中で詳しくその様子が紹介されています。アカデミー賞を受賞したスペクタクル大作ですのでご興味のある方はご鑑賞をお勧めします。ちなみにこの映画では闘技場の最高峰であるローマ市内ののコロッセウムが見事に再現されています。
下の写真は上の大劇場に隣接する場所にある劇場のクアドリポルティコ(観客が休憩時間などにくつろぐロビー)です。のちにこの場所は剣闘士の兵舎としても使われたそうです。
公衆浴場
ポンペイには3つの大きな公衆浴場がありました。下の写真はそのうちの一つであるスタビアの浴場です。この施設にはアポディトゥリウム (脱衣場)、その次にフリジダリウム(低温の浴室)、更にテピダリウム (中温の浴室) があり、最後にカリダリウム (高温の浴室) が備わっていました。 暖房は壁の中の配管を通じて提供され、床面も窯の熱い空気と火鉢によって暖められていたと言われています。快適に楽しめるように多くの工夫がなされていたことになります。
ローマ帝国において浴場はまた市民の大きな楽しみの一つであったようです。午後の早めに仕事を終えて夕方にかけて浴場でのんびり過ごしていたと言われています。単に体を綺麗にしてリラックスするだけでなく他の人たちとの楽しいおしゃべりの場にもなっていたようです。これは日本各地にある温泉施設の楽しみ方ととても似ているように思います。
犠牲になった人々の石膏像
ポンペイでは火山の噴火で逃げ遅れた人々の身体は火山灰に埋もれたまま朽ちて空洞になって残されていたので、この空洞に石膏を流して固めて、当時の人々の姿がそのまま時間が止まったかように再現されました(下の写真)。このうつ伏せのまま死亡していたのは着ていた衣装から女性の奴隷であったと言われています。
昔テレビのドキュメンタリーでは子供を抱えた女性やその他多くの色々な姿の人たちの石膏像が紹介されていましたが、今回の見学ではこの上の石膏像しか見学しませんでした。このような石膏像が再現されたことにより当時の生々しい惨状や恐怖がいくらかは把握できたことになります。
パン屋さん
ポンペイには当時パン屋さんが30軒ほどあったと言われています。ローマ帝国は周辺地域を次々と属国にしていったので色々な地域でとれる小麦粉やその他食材や香辛料は豊富にポンペイにももたらされていたと想像できます。
左下はパン焼き窯で右下はひき臼です。
フォロ(公共広場)
フォロは英語のフォーラムという言葉の語源で古代ローマ時代の都市の中心の広場でした。ポンペイのフォロ(下の写真)は東に市場、北にジュピター神殿、西にアポロ神殿、南にバジリカ(法廷や商業活動が行われる中心的な建物)が隣接していました。
フォロは昔から政治・行政の活動、商談などの経済活動、集会・議論や色々な行事やイベントに使われてきました。街の中で最も人々が集う活気ある広場で、古代ローマ時代から都市にはこのような公共広場が設けられていて街を発展させ、活性化し、人々の生活を快適で豊かにするのに重要な役割を果たしてきたと考えられます。
上の写真では広場の中心付近から北の方角を眺望していて、正面にジュピター神殿とその背景にヴェスヴィオ火山が見えています。訪れた当時もこの広場には多く観光客が集まっていました。
このフォロとその周辺付近を撮影した動画(1分7秒)を下に掲載します。
ポンペイの街から見たヴェスヴィオ山
ヴェスヴィオ山は、南イタリアのカンパニア州ナポリにある活火山です。2つの峰からなっており、高い方には火口があり標高約1,277mです。一方のヴェスヴィオ山をとりまく低い方の峰はソンマ山で標高約1,132mの外輪山です。
下の写真は人気の撮影スポットから撮影したポンペイの街から見たヴェスヴィオ火山ですが、この街は火口から約10Kmしか離れていません。現地に立つと火山がすぐそばに迫って見えていました。大噴火を起こす前は皆この雄大な風景をめでていたものと思われます。
この火山が大噴火した時はポンペイの人々は想像を絶する驚きと恐怖に見舞われたに違いありません。ただし、何度かにわたって噴火したようで人々は最初は様子を見ていて避難はせず、結局逃げ遅れた2,000名ほどの人が火山灰や火砕流に埋もれたことになります。
大噴火に見舞われた時、裕福な人々から先に避難し、犠牲になった人たちは奴隷の身分の人が多かったのではないかと思います。お金持ちがたくさんの財宝を無理に持ち出そうとして逃げ遅れて犠牲になったケースもあったようで、あまり欲は出さない方が良いのかもしれません。
なお、ポンペイの人々がどこへ避難して定住したかは資料が残っていないためになかなか特定が難しいそうですが、たとえばイタリア南部の沿岸沿いに避難し、その多くがその後定住したことが最近分かったそうです。
このポンペイの悲劇を描いた映画として、TVドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」で注目を集めたキット・ハリントン主演のアメリカ映画「ポンペイ」(2014年制作)が有名です。映画の中ではポンペイの円形闘技場をはじめ、ポンペイの街並みが見事に再現されています。またヴェスヴィオ火山の大噴火の様子も詳しく描かれています。
ポンペイ遺跡を見学した後は入り口近くのレストラン(RISTORANTE VESUVIO)で昼食にピッツア・マルゲリータをいただきました(下の写真)。
左下は一人前のピッツァですが、思った通り大変な分量で、皆さんせいぜい半分までしか食べられませんでした。ピッツアの代表なので味はとてもおいしかったです。
昼食後は観光バスで次の宿泊地であるアルベロベッロまで行きました。
下の写真は今晩から2泊するグランド・ホテル・オリンポです。リゾートホテルっぽい素敵な外観と色合いです。
ホテルで少し休憩した後夕食に出かけました。アルベロベッロにある Miseria e Nobiltà というレストラン(左下の写真)です。料理はモッツアレラチーズ、リゾット、肉ロールでしたが下の写真で分かるように日本人向けの少なめの完食できるうれしい分量になっていました。
これで旅程4日目の観光は終了です。
旅程5日目
旅程5日目はまず午前中にアルベロベッロの観光へ行きました。その後お昼前からバスで世界遺産マテーラ観光へ向かいました。
世界遺産アルベロベッロ
アルベロベッロは南イタリアにある人口1万1千人弱という小さな街ですが世界中から観光客が訪れています。トゥルッリと呼ばれる円錐形の屋根を持つ白壁の家が建ち並ぶ、世界に類を見ない景色で、可愛いメルヘンチックな町並みはまるでおとぎの国へと来たかのような感覚になります。「アルベロベッロのトゥルッリ」の名称で1996年に世界遺産に登録されました。
トゥルッリとは、部屋を意味するトゥルッロの複数形です。一つの屋根に一つの部屋がありそれらが集まって一軒の家になっていることからそう呼ばれているそうです。
17世紀初頭に当時の領主がナポリ王国の許可を得ずに街づくりを始めました。ところが、当時は住居の数に応じて国王に納税義務があったので、領主は税金逃れのために簡単に解体できるように石灰岩を積み上げただけのトゥルッロの住居を義務化したのです。このため税の取立人が来るたびに住民は家を取り壊さなければならなかったそうです。
なお、現在のトゥルッリは石が積み上げられているのは屋根のみで、白壁部分はちゃんと接着されているそうです。
この地域は地震や火山活動が活発なナポリ地区とは違って幸運にも昔から地震がなかったそうです。そのために石を積み上げただけの家でも大丈夫だったのでしょう。
下の写真はベルベデーレからアルベロベッロの街を眺望した風景です。この地域には約1,500軒のトゥルッリがあるそうです。
下の写真はある家のアプローチ付近の光景ですが、白壁に赤い花々がとても映えています。アルベロベッロの街が世界遺産に登録されたので自由に家の改築などができなくなり、多少の不自由を感じた住民はほかの場所に移り、トゥルッリはお店やホテルなどとして使っているケースが多いそうです。
下にアルベロベッロの街を散策している時の雰囲気を少しだけ動画(37秒)でご紹介します。
下の写真は現地ガイドさんが掲げて説明してくれたトゥルッリの断面図です。1階部分が居住部屋で、上の屋根裏部屋はツボなどを置いた倉庫、床下には雨水を貯める貯水槽があったそうです。三角屋根に降った雨水は2重壁の間に入れられている砂の部分を通り抜けて、雨水をろ過した形で下の貯水槽に流れ込むようになっているようです。貴重な水を有効に活用する工夫が見られます。
左下の写真はガイドブックなどでよく見かける風景です。屋根に白く絵や文字らしきものが描かれていますが、魔よけのマークであるとか、個人宅を判別するためのマークであるとかいくつかの説があるようです。右下は両側にたくさんの可愛いお店が集まった緩やかな坂道です。
左下は小さな可愛い市庁舎で右下はポポロ広場です。ポポロ広場はアルベロベッロの中心にあり、周辺には市庁舎や教会など色々な建物があります。この広場は地元の人々の憩いの場でもあるようです。
左下はカトリックのサンタントニオ教会です。この教会はトゥルッリでできた唯一の教会でアルベロベッロの伝統的手法で1926年に建てられたそうです。右下はその内部の祭壇の様子です。
午前中に別世界のような「おとぎの国」の散策を堪能した後は、観光バスで次の観光スポットであるマテーラへと向かいました。
この旅行記は「南イタリア観光旅行(3)」へ続きます。