はじめに
この旅行記では10月に行ってきた5日間のパラオ観光旅行をご紹介しています。この記事では4日目(観光最終日)~ペリリュー島戦跡ツアー(前編)をご紹介しています。
1~2日目の出発~パラオ社会・産業見学の記事については「パラオに観光旅行(1)」に掲載しています。
3日目のロックアイランドクルーズ観光の記事については「パラオに観光旅行(2)」に掲載しています。
4日目(観光最終日)~ペリリュー島戦跡ツアー(前編)
今日はホテルでいつもより朝早く目が覚めました。日の出前の薄暗い中であちらこちらで聞こえてきた鶏の「コケコッコー」という鳴き声に誘われてテラスへと出ました。
ふと空を見上げると太陽が出るであろうあたりから青い空を背景にしてピンク色の放射状の帯が延びているのが見えました(下の写真)。なかなか幻想的な光景でした。
パラオとはいえ早朝の少しひんやりとする中を30分ほど待っているとようやく日の出となりました(下の写真)。
ペリリュー島
今日は観光最終日ですが今回のパラオ旅行の主な目的の一つであるペリリュー島の戦跡ツアーに参加します。ペリリュー島はコロール島から南西に約40Kmの距離にあり、スピードボートで約1時間かかります。コバルトブルーの海で有名な世界遺産のロックアイランド群の最南端に位置しています。
この島の大きさは南北に約9Km、東西に約3Kmです。
ペリリュー島での戦闘
ペリリュー島は第二次世界大戦(太平洋戦争)中に日本軍と米国軍の間で太平洋で最も過酷で激しい戦闘が繰り広げられたことでよく知られています。
第一次世界大戦後ペリリュー島を含めパラオは日本の委任統治領となりました。1933年に日本が国際連盟を脱退した後ペリリュー島には日本の軍事基地が本格的に整備されていったようです。
1941年に日本が真珠湾攻撃を行いアメリカとの太平洋戦争に突入しました。1944年頃までにはアメリカ軍はフィリピン・レイテ攻略のためにこの島が中継地点、すなわち航空支援基地として重要だと認識し、この島への上陸作戦を決めたようです。
当時ペリリュー島には長さ約1,200m、幅約80mの滑走路が十字型に2本整備されていて当時東洋一と言われていました。アメリカ軍はこの滑走路を活用するのが第一の目的だったようです。
アメリカ軍は1944年9月15日に島の南西部オレンジビーチからの上陸作戦を開始し、最初2~3日程度で島を奪えると楽観視していましたが実際には約2ヵ月半もの日数がかかりました。
主な理由は日本軍が従来のような「バンザイ突撃」を改め、固い石灰岩でできた島の要所に500以上の塹壕を掘り地下通路を整備して「一日でも長く生きて戦い続ける」というようなゲリラ戦的な戦法を新たに採用したからです。
いかに激戦が繰り広げられたかは日米双方の死傷者を見ればあきらかです。日本軍は10,500名の守備隊のうち最後まで戦って生き残っていたのはわずかに34名でした。
一方アメリカ軍は、第一海兵師団と第81歩兵師団など合わせて約48,700名を投入し、戦死者約2,300名、戦傷者約8,500名でした。さらに数千名が過酷な戦争が原因の精神的な病気になったといわれています。
特に海兵隊の中でも最強と言われていて最初にオレンジビーチへ上陸した第一海兵師団の第一海兵連隊(約3,000名)は60%以上が死傷するというアメリカ海兵隊史上最も多大な損害を蒙り、途中で撤退し、陸軍の第81歩兵師団と交代せざるを得なかったという過酷な状況でした。
そして1944年11月27日についにペリリュー島の日本軍守備隊の組織的戦闘が終結しました。
ペリリュー島戦跡ツアー
昨日ロックアイランドに行くときに訪れた港から再びスピードボートに乗り込みます。今日も昨日同様に非常に良いお天気に恵まれました。
今回のボートはお見合い席ではなく全席前を向いていました。今日は観光ポイントをめぐるクルージングではなくペリリュー島へ最短距離で高速で行くためです。
1時間ほどボートに揺られるとようやくペリリュー島が見えてきました。それにしてもこのような美しいコバルトブルーの海に囲まれた島で激戦があったとは信じがたいほどです。
乗船した白いボート(左)遠くに見えてきたペリリュー島(右)
島の右端の港へ向かって進みます。見たとおり島には高い山脈などはありませんが、中央付近には最高標高約100mの険しい山岳地帯があります。その場所は日本軍が最後に立てこもった場所となっています。
船が港に着くとすぐそこにツアーの拠点となる水色の建物がありました。
右側の港へ向かって接近中(左)とペリリュー島戦跡ツアーの拠点となる建物(右)
港からは小型バスに乗り換えて戦跡ツァーに出発しました。まもなく道路のすぐ脇に旧日本軍の小規模なトーチカがありました。コンクリート製の頑丈そうなトーチカで現在でもかなり綺麗な状態で残っています。
またペリリュー島のすぐ近くにガドブス島という島があり、そこにも1,000m級の滑走路があって主にゼロ戦が配備・運用されていたとのことです。その島を結ぶ橋の橋脚が残っていました。
旧日本軍のトーチカ跡(左)とガドブス島への架け橋の橋脚跡(右)
千人洞窟
港からすぐのところに千人洞窟と呼ばれる大規模な洞窟が残っていました。内部はありの巣のようにたくさんの部屋や通路が築かれていて1,000人ほどの兵士が寝泊りすることができたということです。
千人洞窟の入り口(左)とその入り口の拡大写真(右)
みな懐中電灯を渡されて頭を硬い石灰岩にぶつけないように注意しながら洞窟内へ入っていきました。
洞窟はとても硬い石灰岩を人手で長い年月をかけて掘り進めて作られており、かがまないと通れないほど天井が低い場所や、人一人がやっと通れるような狭い場所が各所にあります。
洞窟内の各所の部屋には当時の生活で使っていたビンや硯、ヘルメットや器などがそのままで残されていました。また少し広い部屋は病室として使われていたようで酸素ボンベが何本か転がっていました。
またある通路はアメリカ軍のブルトーザで土砂で埋められた状態になっていました。
洞窟内の部屋に放置されているビール瓶(左)と手紙などを書くために持ち込まれた硯(右)
少し広い部屋で放置された酸素ボンベ(左)と洞窟内の見学を終えて外に出る様子(右)
洞窟入り口の周辺の石灰岩の表面をよく見るとあちらこちらに黒い煤が残っていました(左の写真)。
これはアメリカ軍の火炎放射による攻撃の跡だということです。
島にはゲリラ戦に備えてこのような洞窟が500ヶ所以上も作られていたそうです。
洞窟と少し離れた場所に比較的大きなトーチカが残っていました。
30m~40mの長さのトーチカ(左)と銃眼(右)
戦没者慰霊碑(みたま)
島の共同墓地の一角にはペリリュー島での戦没者慰霊碑(みたま)が設けられていました。
またそばには将校などの個別の慰霊碑もたくさん設けられていました。
現地ガイドさんがお線香をたくさん準備してくださっていたので、皆さんそれぞれでお線香をあげて戦没者へお祈りを捧げました。
ペリリュー第二次世界大戦記念博物館
旧日本軍が弾薬庫として使っていた建物は現在ペリリュー第二次世界大戦記念博物館として利用されていました。とても頑丈な作りの建物です。
第二次世界大戦中に使われていた旧日本軍とアメリカ軍の兵器、服、その他備品が展示されていました。また当時の貴重な写真も多数展示されていました。
また生き残った34名の日本軍兵士がアメリカ軍の自動車のタイヤから作ったサンダルなども展示されていてとても興味深く見学することができました。
旧日本海軍が使っていた機雷(左)と記念博物館の入り口(右)
記念博物館の側面(左)と旧日本軍、アメリカ軍が使用していた水筒、ヘルメット等(右)
ペリリュー島の十字型の滑走路(左)と旧日本軍が使用していた日本刀など(右)
旧日本軍の機関銃(左)と日本軍兵士が履いていたアメリカ軍のタイヤから作ったサンダル(右)
左の写真は、ペリリュー第二次世界大戦記念博物館の外に展示されていた旧日本空軍が使っていた爆弾です。
これ以外にもいくつかの種類の爆弾が建物の外側に置かれていました。
日本軍総司令部跡
バスを降りて少し森のほうへ歩いていくと、日本軍総司令部跡が見えてきました。
当時はかなり立派な鉄筋コンクリート製の建物だったことがうかがえます。アメリカ軍のかなりの集中砲火を浴びたらしく天井や壁にはあちらこちらに直撃弾の跡がありました。
窓はすべて吹き飛ばされたのかと思いましたが、実は当時からもともと窓はなかったそうです。パラオのさわやかな風が常に室内を自由に流れるように設計されていたそうです。
ここは司令部でしたので下士官や通信兵、事務要員など40~50人ほどが常駐していたのでしょうか。
旧司令部を横からみたところ(左)と正面玄関側からみたところ(右)
堅牢につくられていた通信室(左)と通信室の内部(右)
直撃弾を受けた天井(左)と本格的に作られた階段(右)
トイレの跡(左)とお風呂場の跡(右)
司令部の中庭に設けられた防空壕(左)と防空壕の内部換気用の煙突(右)
通信室は特に丈夫に作られていたので現在でも台風のときに地元のパラオ人の人々の避難所として使っているとのことでした。
鉄筋の鉄も錆びてきていますし、また建物の上に生えている木や草の根によってコンクリートが次第に破壊されてくればいずれこの建物も崩落してしまうかもしれません。
旧日本軍戦車
ペリリュー島守備隊の中には戦車隊も含まれていました。九五式軽戦車が17両あったとのことです。ただし対するアメリカ軍にはこれよりはるかに大きくて強力な武器を備えたシャーマン戦車等が117両あったそうです。
戦車の攻撃力・防御力の差はあまりにも大きく、旧日本軍の戦車隊が出動した際ごく短時間の間(1日もかからずに)に殲滅されてしまったそうです。
九五式軽戦車に近づいてよく見ると肝心の前面の鉄板の装甲がとても薄いことが分かります。シャーマン戦車やバズーカ砲の砲弾が当たれば簡単に大破したのだろうと想像できます。
ペリリュー飛行場
バスで森を抜けると突然開けた場所に出ます。当時アメリカ軍がもっとも欲しがっていたと思われる当時東洋一の規模を誇っていたペリリュー飛行場です。このような規模の島に1,200mの長さの立派な飛行場があったのは驚きです。
ちなみにアメリカ軍が最初の上陸地点に選んだオレンジビーチはこの飛行場に距離的に最も近いビーチになります。
次の訪問先はオレンジビーチです。
この旅行記は「パラオに観光旅行(4)」(4日目(観光最終日)~ペリリュー島戦跡ツアー(後編))に続きます。