シルクロードの旅(2) 

はじめに

10月中旬に9日間で中国のシルクロード(西安、敦煌、トルファン、ウルムチ)を観光旅行しました。この記事では旅程3日目の西安の明代城壁、西安から敦煌へのフライト、敦煌博物館、鳴沙山などの観光、旅程4日目の莫高窟、陽関、玉門関などの観光の様子をご紹介します。

旅程3日目

朝ホテルを出発して西安の明代の城壁の観光へ行きました。

西安の明代城壁

西安(長安)明代城壁は西安市の中心部にあり、明の時代に8年ほどの歳月をかけて建造されました。城壁の高さは約12m、城壁上部の通路の幅は約13m、城壁内の面積は約11平方km、城壁の一周の長さは約14kmです。

三国志でも難攻不落とされた西安の城壁は中国に現存する城壁の中で最大規模で保存状態もよく西安の有名な観光スポットになっています。日本の平城京や平安京もこの長安の街をモデルに作られたそうです。

下の写真は西門から入場する様子を撮影したものです。

西門を抜けると広大な中庭がありました。その中庭にある唯一の大木が下の写真に写っています。レンガ造りの城壁も頑丈でとても重量感がある立派なものです。

城壁の上に上がって通路を眺め、約13mの幅の通路が直線で数キロメートルも続く光景は圧巻でした(左下)。当日はこの道をランニングしている市民を何人も見かけました。

右下は唯一木が生えている場所にある井戸の蓋です。この井戸からは当時甘い水が湧いていたと言われ、長安城の人たちの貴重な飲み水になっていたそうです。

この場所は昔風の背景としてとても良いので、当日も昔の中国の着物を着飾った一般人のモデルの記念撮影をするチームが何組もいました。

お昼ごろ西安の空港に行き国内線で敦煌まで移動しました。昼食は機内食で済ませました。

敦煌

敦煌は、中国甘粛省に位置し雄大な砂漠の中にあるオアシス都市で、シルクロードの分岐点として古くから栄えた交易都市です。8世紀末になると衰退しますが、仏教美術の宝庫である莫高窟遺跡などの古い遺跡や資料が良い状態で保存され、歴史・文化・宗教的に重要な土地になっています。

現在の人口は約19万人ですが、漢が河西回廊(現在の甘粛省)を制圧して敦煌の西に防御拠点玉門関と陽関を設置した頃は約4万人だったと言われています。同じ時期に中国の人口は約6,000万人だったので当時はかなり栄えた都市だったことが分かります。

午後敦煌に到着した後、敦煌博物館と鳴沙山の観光へ向かいました。

バスの移動中に撮影した敦煌の街並みの様子です。

途中の休憩所のお店で見かけたパンダ専門店です。可愛い感じでしたので撮影しました。

敦煌博物館

ここでは敦煌の歴史とシルクロード文化遺物などの展示が行われています。中国の秦、漢、隋、唐、宋、明、清の各時代の展示物などを見学することができます。

青銅製の牛車だと思いますがとてもよくできた置物だと思います。

プレートに人々の生活やイベントなどの様子が綺麗な色付けで描かれています。当時の服装や生活を知るうえで貴重な資料だと思います。

左下はシルクロードを行き来していた人とラクダを造形したものだと思われます。綱はもうありませんが人が手綱を引いている様子が想像されます。右下は豊富に出土した陶磁器です。

 

清代の敦煌城のジオラマです。当時にはすでに立派な城壁と街並みが整っていたようです。

敦煌博物館を見学した後は、楽しみにしていた砂漠の見学へ行きました。

鳴沙山と月牙泉

鳴沙山は、敦煌の南に広がる壮大な標高約1700メートルの砂丘です。月牙泉は、鳴沙山の麓で静かに水を湛える奇跡のオアシスです。これらは敦煌の有名な観光地になっています。

鳴沙山は風が吹いたときに砂が鳴くような音を出すことで知られています。この現象は世界でも非常に珍しいものだそうです。

鳴沙山のふもとに静かに佇むのが三日月型の湖である月牙泉です。この湖は湧き水によって潤されていて、砂漠の真ん中にありながら数千年もの間水を湛え続けている奇跡の泉です。

入り口を入ってすぐに目に飛び込んできたのは遠くに砂山が見える風景です。

この時に撮影した動画をご紹介します。

鳴沙山・月牙泉観光地図です。

その後、鳴沙山の麓までは電気カートに乗って移動しました。砂丘の上を歩くことになるので靴の中に砂が入り込まないように両足先を覆う足袋を一人20元でレンタルしました。

月牙泉の近くまで砂の上を歩いて行ってそこでフリータイムになりました。

その様子を下に動画で紹介します。

多くの人が砂丘の上まで登ろうと頑張っていました。登りやすいような簡易の階段が設けられていました。

砂丘の上まで登る時間はなかったので砂の感触を確かめるために途中まで少しだけ登ってみました。

砂丘を見渡した風景の動画を下に掲載します。

また月牙泉のすぐ傍まで行って周囲を撮影した動画を掲載します。砂漠の中に豊富な水を湛えた湖を傍で見るとやはり不思議な感じがしました。過酷なシルクロードを延々と歩いてきた旅人達にとってはここはまさに命のオアシスだったに違いありません。

最後に電気カートの基地まで戻ってきた時に周囲の風景を撮影しました。夕日に照らされて赤く染まった美しい砂丘が見えています。また砂丘に登っている人々をズームアップしました。

雄大で美しい砂丘、不思議なオアシスの見学はとても珍しく思い出に残るものになりました。

夕食はレストランで驢肉黄麺料理(ロバ肉料理)をいただきました。ロバ肉は特に抵抗なく食べることができました。今回は少し豪華なターンテーブルでした。

この日は敦煌のホテル「敦煌賓館新八楼」に宿泊しました。ここに連泊になります。

旅程4日目

旅程4日目は莫高窟、玉門関、陽関、沙州市場などの観光をしました。

朝ホテルを出て最初に、東西文化の交流を物語る仏教美術の宝庫である莫高窟の見学へ行きました。

莫高窟

莫高窟は古くは千仏洞の別名でも親しまれてきました。約1.6kmにわたる鳴沙山の断崖に掘られた492の石窟には、約45,000平方メートルにもなる壁画と、2,400体以上の塑像が安置されています。

莫高窟の芸術には、東西文明を結ぶシルクロードの十字路に位置していたために、異なる文化、宗教、芸術が交錯し、融合し、そして新たな形が形成されていった過程が刻まれています。

西暦366年に楽僔(らくそん)という仏教僧が金色に光る千体の仏像を感じ、修行の場として石窟を掘ったのがその始まりと言われています。その後巡礼者や裕福な商人、役人たちの信仰心と寄進によって次々と新たな石窟が開鑿されていき、北魏、西魏、隋、唐、五代、宋、西夏、そして元の時代まで10王朝約1,000年にわたって石窟の造営や修復が行われました。

1987年にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。

石窟群へ向かうときに渡った橋から見た風景ですが、現在はこの川の水は枯れてしまっているようです(左下)。遠くの方に石窟群が見えました(右下)。

 

下の写真の場所は人気の記念撮影スポットになっていました。

この付近で撮影した動画を掲載します。

石窟の場所を移動していく様子を撮影しました。

下の写真は莫高窟のシンボルである九層楼の第96窟です。高さ約43メートルの九層の朱色の木造楼閣で、内部には高さ約34.5メートル、幅約12.5メートルの大仏、弥勒菩薩像が安置されています。この石窟は695年の唐の時代に則天武后によって造られたそうです。

莫高窟の初期の石窟では、仏像の顔・身体の表現や壁画の画法などにインドの石窟寺院やガンダーラ美術の影響がはっきりと見られますが、時代の移り変わりとともにこれらの外来の要素は中国独自の美意識や文化と融合し、中国的な仏教芸術へと昇華・変貌していったことが分かったそうです。

このツアーでは一般窟と特別窟45、57を見学し、現地の専門解説員さんに分かりやすい説明をしていただきました。しかし残念ながら石窟の内部は一切撮影禁止になっていたためにここで写真や動画を掲載できません。

見学した仏像や壁画の中には、だれが見ても素晴らしいと感動するような芸術性の極めて高いものが多々あり現物を自分の目で見ることができて良かったと思いました。また各石窟は寄進者によって大きさや豪華さ、壁画の内容や色使い、仏像の表情、姿、形、造形方法などが異なっていてそれぞれが競い合って造っていたことがよく分かりとても興味深く鑑賞できました。

いくつかの石窟の見学の後、芸術資料館へ立ち寄りました。

ここでは、石窟内では撮影できない壁画や仏像の写真や絵が展示・即売されていました。

資料館の内部を見渡して撮影した動画を下に掲載します。

昼食は近くのレストランで郷土料理をおいしくいただきました。いつものようにターンテーブルでした。

昼食後、陽関へ向けて出発しました。

陽関

陽関は、敦煌市の南西約70kmにあるシルクロードの重要な関所の1つです。同時期に設置された玉門関より南に位置したので「陽関」と称されたそうです。玉門関と併せて「二関」と呼ばれ、漢代に武帝が河西回廊の防衛のために設置した要所でした。

入場して最初の門(左下)と二番目の門(右下)です。

下の写真はこの場所から西域に旅立った張騫の銅像です。王維の有名な歌「西のかた 陽関を出づれば故人無からん」とあるように友人との別れを惜しむ送別の場面の象徴として陽関が詠みこまれています。

下は張騫の西域遠征ルートの地図です。ルートを変えて2回遠征したことが分かります。

左下は西の出口の門です。右下はこの門の中の部屋で、当時の刀や弓などの武器が壁に飾られていました。

この後、電気カートに乗って当時の関所跡や烽火台跡が見える展望台まで行きました。

その時の様子を下に動画でご紹介します。

左下は当時の関所の壁があったあたりの風景です。周囲はゴビ砂漠に囲まれています。右下は陽関でわずかに残っている遺跡の烽火台跡です。

この展望台で周囲を見渡して撮影した動画です。周りの雄大な荒涼たるゴビ砂漠が印象的な場所です。

下は陽関観光案内図です。

左下は西域の出口の城壁ですが、壁の前に各種の城攻めの器具が並べて展示されていました。

右下はここを管理している職員の住まいだそうです。周りの建物と雰囲気を合わせた建物の造りになっています。

 

この地域は葡萄が特産物です。ここでも売られていました。葡萄は生でも食べますが主に干し葡萄として街でよく売られています。

ゴビ砂漠

現地ガイドさんの話によると、日本でよく使う「ゴビ砂漠」という言葉は誤解を招くと言っていました。昔から「ゴビ砂漠」の「ゴビ」は砂漠の名前だと認識していましたが実は違うそうです。「ゴビ」は現地語で荒れ地、乾燥した場所を表すそうです。「砂漠」は砂だらけの砂漠地帯のことです。そのため正確には、「ゴビ」と「砂漠」は区別して用いるべきだということです。例えば「ゴビ砂漠」ではなく「ゴビと砂漠」です。

玉門関

玉門関(小方盤城)は敦煌から90キロ離れた北西の丘にある方形の城です。陽関と同時期に建設され、西安(長安)~天山回廊の交易ルートにあり、中国と西域を結ぶシルクロードを防衛するために設置された関所です。周囲の城壁は状態が良く保存され烽火台跡なども見ることができます。周りは荒涼たるゴビ砂漠が広がっています。

 

下の写真は方形の玉門関です。保存状態が良いようです。

玉門関の内部の様子です。

陽関もここの玉門関も設置された後しばらくして共に強化され軍事要塞化されたとのことです。ところでこの玉門関は世界遺産に登録されていますが、先ほど見学した陽関は登録されていないそうです。

この旅行記は「シルクロードの旅(3)」へ続きます。

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