マレーシアに観光旅行(3)

はじめに
この記事ではマレーシア観光旅行の4日目のクアラルンプール市内観光、5日目のプトラジャヤとマラッカの観光、6日目の帰国の様子をご紹介します。
4日目(続き)
イポー駅から乗車したマレー鉄道でクアラルンプールへ到着した後そのまま市内観光へ行きました。

まず最初にマレーシアが始まった独立広場へ行きました。

下の写真はスルタン・アブドゥル・サマド・ビル(旧連邦事務局ビル)です。ムルデカ・スクエア(独立広場)に面しており、1894年〜1897年(英国植民地時代)に建設され英国のマレーシア統治で中心的役割を果たしていました。最大の見所は中央に位置する時計台で、高さ約41メートルでロンドンのビッグベンをイメージして製作されたそうです。

下の写真はムルデカ・スクエア(独立広場)です。広場の端に右下のような記念塔があります。

下の写真は「クアラルンプール」という地名が始まった場所です。クアラルンプールは マレー語 で「泥の川の合流地点」を意味しています。写真で見るとおり綺麗な所とは思えませんが記念すべき場所です。

クアラルンプール駅近くには1957年8月31日のマレーシア独立後、独立の象徴として1965年に建てられた国立モスク(下の写真)があります。

この日の夕食はマレー料理でした(下の写真)。マレー料理といわれるものを食べたのは多分初めてでしたが、強い特徴はなく平均的なアジアの料理というような味だと思いました。

夕食後はペトロナスツインタワーとサロマリンクブリッジのライトアップを見に行きました。

ペトロナスツインタワー(下の写真、右下はライトアップ時)は1998年に完成したクアラルンプールのランドマークタワーで、高さ451.9メートルで88階建てです。完成当時は世界一の高さを誇っていましたが、現在では19位になっています。ただしツインタワーとしては依然として世界一の高さを誇っています。

 

左下の写真はサロマリンクブリッジで、右下の写真はそのトンネル状の内部です。時間とともに色々な色でライトアップされていていわゆる映えスポットとして人気があるようでした。

 

右下の写真は最近完成したマレーシアで一番高いビル「メルデカ118」です。118階のタワーにはホテル、お店、賃貸オフィスなどの他に娯楽施設や展望台などがあります。高さは約656mで現在世界一高いドバイにある高さ約829mのブルジュハリファに次いで世界第2位です。

 

ペトロナスツインタワーとサロマリンクブリッジなどを鑑賞した後、今日のホテル「リッツカールトン・クアラルンプール」(下の写真)へと向かいました。このホテルにも2連泊です。

5日目

旅程5日目は観光最終日で、プトラジャヤとマラッカの観光を楽しみました。

プトラジャヤ

プトラジャヤはクアラルンプール近郊にある新しい行政都市です。政府系機関の多くがクアラルンプールからプトラジャヤに移されたそうです。

左下の写真は首相官邸です。プトラジャヤの文字のオブジェが正面に置かれていました。右下の写真は首相官邸の反対側の風景です。一直線の広い道が作られています。この道は非常時には滑走路として使うことができるそうで、そのために両側の植木は高さが低くなっています。

 

プトラ・モスク(左下の写真)は1999年に建設されたイスラム教スンニ派のモスクです。ピンク色の花崗岩が使用されたドームを中心とした外観が特徴的でピンクモスクと呼ばれていて、収容人数は約15,000人だそうです。この地域で一番人気の観光スポットになっているそうです。

右下の写真はトゥアンク・ミザン・ザイナル・アビディン・モスクで2009年に建設されたそうです。膨大な鉄が使用されていて、銀色が目立つ近代的な表情のモスクで、鉄のモスクとも呼ばれているそうです。

 

プトラジャヤにはいくつかの有名な橋がありますが、スリ・ワワサン橋(下の写真)は中心部と周辺の住宅エリアを結ぶプトラジャヤ湖にかかる美しい斜張橋でこの地域では最も有名だということです。

プトラジャヤの観光後観光バスでマラッカへ向かいました。

マラッカ

マラッカはマレーシア発祥の地とも言われるマレーシアの古都です。マラッカ王国として誕生し、マラッカ海峡という交通の要衝という場所のために大いに繁栄しました。

マレー文化、中華文化、そして400年以上にわたるポルトガル、オランダ、イギリスの統治が続いたことでこれらにヨーロッパ文化が合わさった独自の異国情緒漂う文化を形成してきました。2008年には街全体がユネスコの世界文化遺産に登録されました。

マラッカに到着してまずはニョニャ料理の昼食(下の写真)をいただきました。ニョニャ料理とは、中華料理を基本にマレーシアの香辛料やハーブで味付けしたマラッカ発祥の料理です。

見た目は中華料理ですがスパイシーでエスニックな味になっています。15世紀後半にマレー半島に移住してきた中華系移民の男性(ババ)と地元のマレー系の女性(ニョニャ)が結婚したことで生まれた料理だそうです。

 

旧市街のジョンカーストリートなど

旧市街を散策しました。中華系のお店やレストランなどが立ち並ぶ場所で、週末には観光客で賑やかになるそうです。私たちが訪れたときは人通りもまばらでした。

 

下の写真は、チェン・フー・テン寺院(青雲亭寺院)で、1646年に建てられたといわれるマレーシア最古の中国寺院です。当時中国南部からの建築材料と職人技術によって建てられたため、中国南部の様式の特徴がみられるとのことです。道教・儒教・仏教の三教の神を祀る珍しい寺院となっているそうです。

屋根や建物内部などとても豪華で威厳のある造りとなっていました。

 

散策中に道端に1980年代製造と思われる日産サニーが止めてありました。あまりにも古いので思わずシャッターを切りました。ガイドさんによるとマレーシアでは車検がないのでいくら古い車でも動きさえすれば乗れるとのことです。

 

マラッカのイスラム寺院の屋根は左下のように三角屋根になっているそうです。右下の写真は足を清める小さなプールだそうです。

左下の写真はカフェと思われる店先ですがトロピカルな観葉植物がたくさん置いてありました。また右下の写真はお店で使うヤシの実をお店の前に無造作に置いている様子です。

 

マラッカでは最初は左下の写真にあるマラッカ川の岸が港(荷物の積み下ろし)として使われていたそうです。左下の方にある原始的なクレーンを拡大したものが右下の写真です。

見て分かるように大型船やたくさんの船の着岸は難しい場所ですので、港の機能がだんだんとシンガポールに奪われていったそうです。

上の写真の反対側のマラッカ川の風景が下の写真のようになります。ここでは川沿いの美しい風景を楽しむことができる遊覧船のクルーズもあるようです。

下の写真はマラッカの街の中心部に位置しているオランダ広場です。マラッカでは大人気の観光スポットということで当日も多くの観光客で賑わっていました。右下の写真のキリスト教会は1753年に建てられたマレーシアで最古のプロテスタント教会だそうです。

オランダ村からところどころ幅が違う階段を足元に注意しながら登って行くとセントポールの丘へ行けます。途中から眺めたマラッカ海峡(下の写真)です。

左下の写真は回転する展望室が地上80mまで上昇しマラッカの街を360度見渡すことができるマラッカタワーです。右下の中央に見える帆船は原寸大のレプリカで、マラッカを統治したポルトガルがマラッカ侵攻の歴史を伝える資料等を展示したマラッカ海洋博物館だそうです。

このような観光スポットをこまめに見学するとまる一日は楽しめそうです。

 

セントポールの丘にはポルトガル統治時代にポルトガル人によって建設されたセントポール教会があります。その前には下の写真のようなフランシスコ・ザビエルの石像が立っています。よく見ると右腕が欠けています。

セントポール教会は天井が落ちて壁だけが残った状態になっています。その教会の奥には金網が張ってある一角があり、昔その下の地下室にフランシスコ・ザビエルの遺体が9か月間安置されていたそうです(下の写真)。

フランシスコ・ザビエルの奇跡

日本でも大変有名な宣教師フランシスコ・ザビエルは中国での布教活動を行うべく中国の上川島で中国政府の許可を待っていましたが病に倒れて1552年に亡くなってしまいました。遺体はインドのゴアに搬送途中にマラッカのセントポール教会に9か月間安置されていたそうです。

インドに搬送された後1614年にローマのイエズス会総長の命令で遺体の右腕を切断してローマへ送ることになったそうです。それ以前にも何度か遺体を掘り起こすことがあったと思われますが、この時も掘り起こした遺体は、全く腐敗しておらず、まるでまだ生きているようだったということです。そのとき切断した右腕からは鮮血が流れ、奇跡だと人々を驚かせたと言われています。

キリスト教では生前信仰心が篤かった人は神から選ばれて聖人となって死後体が腐敗しないといわれているそうです。遺体が全く腐敗しないという例がほかにもいくつかあるそうです。このようなフランシスコ・ザビエルの奇跡も影響したのかどうか分かりませんが、ローマ教皇により1622年にフランシスコ・ザビエルは聖人に列せられたということです。

マラッカではもう一つの奇跡が起こっていました。

上で紹介したフランシスコ・ザビエルの石像の欠けた右腕のことですが、なぜこのようになっているのかについて色々な説があるそうですが、最も本当らしい説は「ある嵐の日に隣にあった大木に雷が落ちて木が破損し、大きな枝が石像の右腕に倒れかかってきたために右腕が壊れて落とされてしまった」というものです。それでもこれは天の神のなされるわざであったとも言われているようです。

下の写真はポルトガルがオランダとの戦いに備えるために1511年に建設した砦の跡です。現在まで残っているのは石造りの門と大砲だということです。

マラッカは昔から海上交通の要衝だっただけに、ポルトガル、オランダ、イギリス、そして日本の統治を順番に経験することになってしまったのだと思われます。

マラッカの観光を終えてまたバスでクアラルンプールへ戻ってきました。

夕食までにまだ少し時間があったので、街中の大型ショッピングセンター(下の写真)へ行きました。参加者の方々はここで日本へのお土産などを購入していたようです。

 

マレーシアに来てから街のあちらこちらでよく見かけた面白くておしゃれな木がありましたので写真を撮りました。下の写真のほぼ中央付近に写っている黄色の葉の木です。広げたパラソルを縦に何段も継ぎ足したような形の木です。ガイドさんによるとこの木は「タワーツリー」と言うそうです。

さて観光ツアー最後の夕食は広東料理(下の写真)でした。団体ツアーの場合、最後の晩餐は一番豪華な料理が出てくることが多いと思っています。多くの団体ツアーを経験した個人の感想ですが、良い思い出が残るように工夫してくれているものと考えています。

明日の出発が早朝なので夕食後は早めにホテルに戻りました。

まだ外は明るかったのでホテル前でバスを降りてそのまま近くのコンビニへ行こうと歩き出しました。その時突然にスコールに襲われてしまいました。

幸い傘は持っていましたが、日本ではめったに経験しないようなものすごい豪雨、横風、雷に遭遇し、歩道や車道も雨水が流れる川のようになってしまい、服の上下、靴の中までびしょぬれになってしまいました。観光最終日になって南国のスコールをまともに体験することになりました。

6日目

旅程6日目は観光はなくそのまま空港へ行って日本へと帰ります。

ホテルの出発は早朝4時でした。早朝4時過ぎなのになぜか街の一角にはたくさんの人がいました。朝ご飯をたべているのでしょうか。マレーシアは昼間はとても蒸し暑いので早朝に仕事などを始めて昼間早いうちに家へ帰っているのでしょうか。

クアラルンプール空港では待ち時間の間にマレーシア航空のラウンジ(下の写真)を利用しました。ここは初めての利用です。食べ物や飲み物はかなり種類があり、また内部のスペースも広くとても快適でした。

 

夕方に成田空港へ無事に到着しました。

おわりに

今回のマレーシア観光は、世界遺産の街マラッカとペナンのジョージタウン、近代首都クアラルンプール、マレー新行政都市プトラジャヤ、マレーシア第3の都市イポー、ロイヤルな街クアラカンサーの6都市を巡る旅でした。

初めてのマレーシア観光でしたので見るものや食べるものをとても新鮮に感じました。ただし、このツアーではペトロナスツインタワー、数々のモスク、その他有名な施設などほとんどの建物の内部は残念ながら見学しませんでした。

次回また行くことがあれば有名な建物の内部の見学を優先したいと思っています。また比較的涼しいと言われている高地のリゾートタウンであり、緑の美しい風景が広がるキャメロンハイランドにも足を運びたいと思っています。

マレーシアではイスラム教、仏教、ヒンズー教、キリスト教とそれに関連する文化、生活習慣がモザイクのようにお互いを尊重しながら自然に共存しているところに軽い驚きを覚えました。

ところで今回のガイドさんが昔日本のテレビで大ヒットしたドラマ「快傑ハリマオ」のことにふれていました。マレーシアと何の関係があるのかなと思っていましたが、主人公のモデルは日本人の谷豊という人で、第二次世界大戦前、マレー半島で日本帝国陸軍に協力していた義賊で「マレーの虎」「ハリマオ」と呼ばれていたそうです(ハリマオはマレー語でトラの意味)。

マレーシアはまだまだこれからさらに経済的、文化的にも発展していくものと思われますので、将来はどのようになっていくのかに興味があります。

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